02 / 繰り返さない日常
繰り返さない日常
「育江、弁当の用意はしてくれたか?」
隣の部屋で作業着に着替えながら、夫の太郎が私に話しかけてきた。
「テーブルの上に置いてあるから、支度ができたら持って行って。」
返事が返ってくる前に部屋を移動した足音が聞こえた。今日は起きるのが遅くなってしまったためなのか、いつもより慌てている様子が伺える。
私と夫は土木関係の仕事に就いており、職場も一緒である。一緒の職場で働くと言っても、夫は現場で働き、私は事務の仕事をしているので、仕事において互いに同じ時間を過ごせるのは夫が近くで働いている時の昼食ぐらいなのだが。
その時、夫の使う工具が何個か床に置きっぱなしになっているのが目に入った。
「おーい、支度できてないなら先に行くぞ?」
夫の急かす声を聞いて、工具を鞄にしまい、すぐに玄関へ向かった。
結婚してから七年の月日が流れたが、私たちは同棲し始めた頃と同様に、今も変わらず一緒に歩いて職場へ出勤している。
先に靴を履いた夫が玄関のドアを開けると、早朝だというのに湿った生温かい空気が家の中に入ってきた。今日も蒸し暑くなるのだろう。
私はエアコンの効いた部屋で仕事ができるが、夫は太陽を浴びながらの作業になるはずなので、少し心配になった。
「今日は近くの公園で仕事するんだよね?」
すでに額に汗がにじみ出ている夫が汗を拭いながら答える。
「そうだけど、木が生えている方での仕事だから、多少は涼しい環境で作業できると思うよ。」
笑顔で答える夫の頬を一粒の汗が流れた。
数分歩くと、一方が木で覆い尽くされた公園が見えてきた。今日、夫が仕事をする場所だ。道路を挟んだ向かい側には大きなマンションが建っており、ここから見ると、公園がマンションに見下ろされているかのようだった。
私たちは公園を通り過ぎてマンション側の道へ向かった。
早朝ということもあってか、公園はガランとしていて、風で揺れる木々のざわめきが少し不気味に感じられる。
そういえば、何年か前にこの公園で事件があり、それ以降公園で過ごす人の数がめっきり減ってしまったという噂を聞いたことがある。事件の詳細はよく分からないが確か夫が作業を行う、木々の生い茂る方で起きた事件だ。
”何も起こるはずがない。”そう思っていても、言葉では言い表せない不安が私の中に生まれた。
公園を後にし、また数分かけて職場に到着した。
着いて早々に、夫は呼び出されていなくなってしまったが、窓側にある自分の席へ行くと、窓の外では夫が一人で車に乗る姿が見えた。そのまま走り去ってしまったので、呼び出された時に、先に行って何か作業をするように指示が出たのだろう。
その時、自分の鞄にしまっておいた工具の存在に気付いた。自分の中でも色々とあって夫に渡すのを忘れてしまったのだ。今日は作業場も近いし、朝の事務仕事が一通り終わったら工具を届けて、ついでに昼食を一緒に食べる約束もしておこう。
事務の作業は思っていたより早く終わり、すぐに事務所を出て夫の元へ向かった。外界との気温差と照りつける太陽が、朝とはいえど厳しい季節になったものだ。
公園に向かっていると、制服姿の学生と何度かすれ違った。時間が時間なので、この辺りを通る人も少なくなっている。
恐らく立っているだけで汗が出てくるであろう外界の空気の中を歩いていると、職場からそこまで遠くもない公園が、やっと見えてきた。
公園には二つ入り口があり、手前の入り口に着いた時、木々に囲まれた中に夫ともう一人、見知らぬ誰かが夫の背後に張り付いている光景が目に入った。傍らには車椅子が転がっている。
その数秒後の事である。
”私ハ夢ヲ見テイルノ?”
その時ばかりは、照りつける太陽の存在も、そこから送られてくる熱も、体中から噴き出す汗のことさえも忘れ去ってしまっていた。
声が出ない。
ただ、目の前の現実を受け入れる事ができず、私はその場に座り込んでしまった…
Copyright © 2009 殺人ピエロ. All rights reserved.